連載・寄稿

16歳からの大学論 「ほんとうの学び」とは何か

宮野 公樹 先生

京都大学 学際融合教育研究推進センター 准教授
宮野 公樹 先生
~Profile~
1973年石川県生まれ。2010 ~14年に文部科学省研究振興局学術調査官も兼任。2011~2014年総長学事補佐。専門は学問論、大学論、政策科学。南部陽一郎研究奨励賞、日本金属学会論文賞他。著書に「研究を深める5つの問い」(講談社)など。

考えるほどに、「学び」、または、その動詞「学ぶ」という言葉は、我々にとって非常に身近に思えます。本記事を読まれているみなさんには高等学校関係の方々も多くおられることから、「学び」と聞いて直ちに想起する「勉強」や「学習」と言った、自分の外に既に在る情報、知識を身につけるという営みの他、失敗も含めたあらゆる経験から学ぶというフレーズに代表されるような、自己の成長、成熟に資する営みも決して外すことはできません。そうすると、生きていることすべてが「学び」、と言いたくなります。

ところで、「学び」は目的とセットです。先に述べた「勉強」や「学習」においては、明確にその目的が設定されています、試験への合格や、英語等の第二言語の習得と言ったように。さらに思索を進めるなら、その試験への合格や言語習得は何のためか?という問いを立てることも可能でしょう。その場合、希望する大学の入学や資格取得による、自身の人生の充実、となるでしょうか。そうすると、先にあげた勉強や学習とは異なるもう一つの学び、「生きることすべてが学び」という目的に接続されることになります。つまり、「生きること=学び」の(究極の)目的は、自分の人生の充実、としていいのではないかと。

では、さらに問います。「人生」とは何のことを意味するでしょうか。「充実」とは何がどうなったら充実なのでしょうか。もとより、「自分」とは何でしょうか。

手元の辞書によると、人生とは、その文字の通り、人がこの世を生きていくことですが、「生きていく」ということをまず問う必要があるように思います。「充実」も「自分(=人)」もそもそも「生きている」からこそであって「生」について考えることが何もかもの根本、土台にあるのは間違いないことですから。

ここで我々の心情に敏感になるなら、直前の段落で使用した「生きていく」と「生きている」、そして「生」という三語は、それぞれの意味合いがかなり違うことに気づきます。「生きていく」とは、何やら食っていくこと、生存についての営み。「生きている」とは、何やら気づいたら「自分」というものが「この世」に存在しているという感覚、そして、「生」とは、そうして存在していることです。つまり、「生きていく」のも「生きている」のも、存在(=生)しているからのことであり、そう考えるなら、人生も、充実も、自分も、存在しているから存在している、となります。

在るから、在る。同語反復でしか表現できないこの悲しい到達が終点です。当たり前すぎるこの一文は、何も言ってることになっていません。もはや目的が消滅しているのです。もちろん、なぜ存在が存在しているかという問いは立てることができますが、究極的には、それは一度、脱存在、あるいは非存在になってみないと分かりえないことですから。

ほんとうの学びとは何か。そういうタイトルで筆を進めましたが、私には上記のような「存在」に触れるような思索、思いを巡らす営みが「ほんとうの学び」であるように思えてしかたありません。しいて言うならそれは目的を持たない学び。答えなどなく、その思考を、具体と抽象、個別と全体の間で往来させるしかないような考えのことです*。このような「学び」よりも根本に位置する学びはなく、そういう意味で、学びの本質と言えるのです。

他方で、世間を見渡せば、なんと(具体的な)目的を持った方の「学び」の方が多いことか。何かを獲得する、身に付けるといった学びは狭義なもので、ある意味で枝葉でしかなく、より根本にある「ほんとうの学び」を扱った方が断然我々の暮らし(人生)に影響を及ぼすのはいうまでもないことなのに。受験勉強や、業績向上のための学びを否定しているわけではありませんが「ほんとうの学び」もまた忘れず意識することが、より我々の生を味わい深いものにすることでしょう、人生に答えなどないのは当たり前のことなのですから。

*参考:拙書「問いの立て方」(ちくま新書)の第ニ章「いい問いにする方法」

お問い合わせ

発行所:くらむぽん出版
〒531-0071 大阪市北区中津1-14-2