雑賀恵子の書評 言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか 今井むつみ 秋田喜美 中公新書

雑賀 恵子 さん
~Profile~
京都薬科大学を経て、京都大学文学部卒業、京都大学大学院農学研究科博士課程修了。大阪産業大学他非常勤講師。著書に『空腹について』(青土社)、『エコ・ロゴス 存在と食について』(人文書院)、『快楽の効用』(ちくま新書)。大阪教育大学附属高等学校天王寺学舎出身。

日常ぼうっとしているような時でも「お腹が空いたな」とか考えているものだし、「先週食べた焼肉は美味しかったな」とか思い出したりする。わたしたちは、自分と自分以外のものとの関係を言語によって繋いでいる。また、言語があることで、過ぎ去ったことや未来のこと、ここにないものや抽象的なものを考えることができる。思考するとは言語で世界を切り取って区切り、形づくっていくことだ。そして言語による思考は、その言語を理解する他者に伝達できる。だから、社会を作り、文化を作って、それを発展させることができる。言語は人間を人間たらしめるもののひとつだ。まだ言語を持たない赤ん坊は、自己と世界をどのように捉えているのか、わからない。子どもは、どうやって言語を身につけていくのだろうか。

当たり前のように使っている言語というものを改めて考えてみると(考えるということも言語があるからなのだが)実に不思議で面白い。言語とは、なんだろう。

本書は、オノマトペを手掛かりに言語とはなにかを探る。そして子供の言語習得の過程をオノマトペとアブダクション(仮説形成)推論に軸をおいて分析しながら言語の成り立ちや構造を考察し、さらには言語が体系に成長していくことを見通す。とりかかりの根底にあるのは、認知科学やAI研究での大きな課題である「記号接地問題」だ。言語体系にある記号(たとえば「りんご」という文字や音)がどのようにして現実世界の対象、意味と結び付けられるのかという問題である。ことばを使うために身体経験が必要かどうか、ということから、感覚イメージを写しとるオノマトペの「アイコン性」を取り上げ読み解いていく。オノマトペを言語の10種類の特性(言語学でスタンダードとして論じられる十大原則)と照らし合わせるとほぼ言語であると言えるのであるが、言語の特性からはみ出たところは、身体と抽象的な記号体系である言語との間を埋めるものと考えられる。

著者の今井むつみさんの専門は認知科学・言語心理学・発達心理学、もうひとりの秋田喜美さんは認知・心理言語学。認知科学と言語学が合わさって、オノマトペを手掛かりに言語を探求する手法は、新鮮で実におもしろい。著者たちは、オノマトペを分析しながら次々と湧いてくる問いと格闘し、きり捌いていく。そしてついには言語の発生までたどられ、人間がどのように進化していったのか、人間というものについてまで展開される。最後に、著者たちは、独自の言語の本質的特徴を7つに絞って提唱する。

日常何気なく使い、あたりまえのように受け取っている音の「感じ」がこれほどまで深く掘り進められるのは驚きでもある。本書を読みながら、読者もまた、いろいろな方向に知的興味が喚起されるだろう。わくわくするような冒険に誘うスリリングな書である。

雑賀恵子の書評 番外編 有人宇宙学 宇宙移住のための3つのコアコンセプト 山敷庸亮

 1969年アポロ11号の宇宙飛行士2人が、人類史上初めて月面に足を踏み入れた。このとき人類が宇宙に飛び出す時代が始まるのだ、と胸を躍らせた人も多かったに違いない。ところが、結局米国の宇宙飛行士12人が月面着陸を果たしたものの1972年のアポロ計画終了以降、月面に人類が降り立つことは途絶えた。その理由としては、宇宙開発においても当時冷戦構造下にあった米国と旧ソビエトの覇権争いとなっていたのが米国の成功で決着がつき、その後の冷戦の終結もあって莫大な費用のかかる月探査は下火になったことが大きい。以降は、国際協力による宇宙ステーションがつくられ、人類はステーションの中で地球の周りを回るにとどまった。

 近年になって、米国・ロシア、続く中国に加えてインドも宇宙開発に乗り出し、再び月面を目指すようになってきた。国家プロジェクトだけではなく、民間企業も続々と参入している。米国が2019年に発表したアルテミス計画は、アメリカ航空宇宙局(NASA)と民間宇宙飛行会社、そして欧州宇宙機関や日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)ほか国際的パートナーによって、月面に人間が持続的に駐留できる基盤を確立することを目的とし、最終的には有人火星探査を目指すというものである。月や火星に、人類が居住する時代が来るかもしれない。

 だが、地球という惑星の環境において多種多様な生命体が関係を持った生態系のなかで生存している人類が、他の星で生存することは可能だろうか。他の惑星を地球のように改造するテラフォーミングは、実現が極めて難しい。とはいえ、ドームのような閉鎖空間に、人類が持続的に生存できる環境を作り出すことは不可能ではないだろう。

 本書は、人類が宇宙に移住し、持続可能な社会構築をするために必要な課題について、最新の研究成果から読み解くものである。京都大学大学院総合生存学館に設置されているSIC有人宇宙学研究センター長の山敷庸亮が編者となって、有人宇宙学研究に参加した諸分野の気鋭の研究者たちに加え、宇宙開発組織の研究者、宇宙飛行士(土井隆雄、山崎直子)たちも執筆している。

 本書の構成は、以下のようなものだ。

 Part1「宇宙移住に向けての序論」では、本書の柱となる宇宙移住に必要なコアコンセプトとして、「コアバイオーム(核心生態系)」「コアテクノロジー(核心技術)」「コアソサエティ(核心社会)」の3本が提唱される。

 人類が生存できる場所を創設するには、地球を知らなければならない。なにゆえ、地球は生命を宿す星となり得たのか。序論では、水の惑星としての地球の特殊性、および生命や安定な環境を守るための仕組みが解き明かされる。地球は唯一無二の奇跡の惑星としか思えないが、この知見を梃子にしつつ、地球とは全く異なる環境を持つ生命の惑星の存在を探ることもできよう。そうすると生命とはなにか、という新たな探究にも思考の道は拓ける。有人宇宙学とは、宇宙での居住可能性を探究するために、地球や生命系を考える広がりと深まりに満ちた学問なのである。

 Part2「コアバイオーム」。

 地球生態系において、なくてはならない生態系がコアバイオームである。

 第1章「宇宙海洋と宇宙養殖」では、大気海洋循環における気候安定化という地球物理学的機能と、水圏生態学的機能、さらに養殖技術を通した食料確保と人類の生存基盤的機能という面から、宇宙海洋について考える。

 第2章「宇宙森林学」は、地球ではそれぞれの環境に適応した進化を遂げている多種多様な生物が複雑に連関して物質循環を成していることが説かれる。火星などに生物が生存するためには、外界から隔離された小規模な人工生態系である閉鎖生態系生命維持システムを創設しなければならない。微小重力、真空(圧力)、宇宙放射線、光、気温、大気組成など宇宙の特殊環境とどのように対峙するのか問題点が挙げられ、現在の実験研究が紹介される。植物栽培は食料確保のほかに、樹木育成によって木材資源の供給、酸素の供給、やすらぎ空間の提供などの意義がある。驚くのは、宇宙木材プロジェクトとして現在木材人工衛星も計画されていることだ。

 第3章「空気再生・水再生・廃棄物処理」では、現行の国際宇宙ステーションという限定された閉鎖空間で、持参した空気と水を清浄化し、温度・湿度を維持する環境制御・生命維持システムが、理論を踏まえて紹介されている。空気や水はもちろん、排泄物処理も必要であり、ここでもまた、循環的な維持と利用が重要になっている。

 第4章はまとめとして、地球の生態系を模して宇宙空間に小規模閉鎖生態系を構築することの重要性と問題点、そして今後の展望を挙げる。というのも、変化する環境の中で多種多様な生物が極めて複雑に関連しあって進化してきた地球生態系を極々簡略化して模倣しても、循環のバランスが崩れたり進化することもできず、長期的には生態系を維持できず絶滅してしまう可能性が高いからである。

 Part3「コアテクノロジー」。

 人類が宇宙に適応するにあたり障壁となる宇宙放射線および微小・低重力を乗り越えるための技術がコアテクノロジーとしてあげられる。すなわち、宇宙放射線防護技術と人工重力技術である。

 第1章「人工重力と月面・火星での居住施設」で人工重力施設が検討される。

 また、現在の国際宇宙ステーションでは、生存に必要な様々な物質を地球から補給し、船外に廃棄するという直線型社会/経済(リニアエコノミー)となっている。しかし、持続可能な有人宇宙活動を実現するには、循環型社会/経済(サーキュラーエコノミー)を達成しなければならない。第2章「宇宙での循環システム構築」、第3章「資源・エネルギーその場利用」では、これを模索する理論と技術が現状を説明しながら語られる。

 第4章「宇宙食」では、現状と必要な条件を説明しながら、特に、代用肉としての大豆肉、培養肉、昆虫食が紹介されている。

 Part4「コアソサエティ」。

 現在の地球上の人類の大多数は、国家単位の集団に属しており、国内法と国際法によって社会が維持されている。では、月や火星の土地を開発した場合、所有権や利益の分配などはどうなるのか。諸問題に対応するには、明文化された法が必要になってくる。また、社会が形成されるとそれに伴う調整も必要になってくる。そこで、宇宙法などをつくるための学問体系の確立を目指さなければならない。また、宇宙環境における医療の研究も重要である。第4部では、宇宙法社会と宇宙医療をコアソサエティとして、法律・政治・司法のあるべき姿を提示し(第1章「宇宙法」)、医療について考える(第2章「宇宙医療」)。第3章「宇宙観光」では、一般社会法人宙ツーリズム推進協議会の活動を中心に、観光の観点および文化的な観点が紹介される。

 人類が宇宙に飛び出して、移住する。それは何のためだろうか。資源を求めてか。宇宙そのものの探究か。人類に備わった飽くなき好奇心とフロンティア精神に突き動かされてか。

 わたしたち人類は、この星で約38億年前に誕生した生命を引き継ぎ、長い長い進化の過程で生まれてきた。不思議で唯一の星、地球はいま、人類の活動によって汚染され、温暖化による異常気象に晒されて環境が激変している。このままだと21世紀中に、生物の大量絶滅が予想され、人類そのものの生存も脅かされることになる。それなのに、いまだ各地で戦争や紛争は絶えず、また富の分配の不均衡による格差で貧困に喘ぐ人たちは地球人口の8割もいる。

 そのような現在、危機に瀕した地球を見捨てて、人は宇宙に活路を見出そうとしているのか。

 いや、そうではないだろう。

 本書を読めば、有人宇宙学研究とは、一方でまた地球という星と、そこで生まれた生命の繋がりを深く探究する学問でもあることが見えてくる。有人宇宙学研究で得られた知見や技術は、いまの状況を分析し、危機を回避する手立てにも役立つだろう。そして、人間というものを、生命を、世界を考える道を造設するに違いない。 

 有人宇宙学は、現在にしっかり根を下ろして、未来を繋げようとする探究の営みなのだろう。

雑賀恵子の書評 動物がくれる力 教育、福祉、そして人生 大塚敦子

雑賀 恵子 さん
~Profile~
京都薬科大学を経て、京都大学文学部卒業、京都大学大学院農学研究科博士課程修了。大阪産業大学他非常勤講師。著書に『空腹について』(青土社)、『エコ・ロゴス 存在と食について』(人文書院)、『快楽の効用』(ちくま新書)。大阪教育大学附属高等学校天王寺学舎出身。

 外出先で体の不調を感じ、夜這々の体で一人暮らしの部屋に帰宅するなりベッドに倒れ込み、そのまま気絶するように寝込んでしまったことがあった。どのくらい経ったか、高熱の苦しみでうっすらと目を開けると、そのころの飼い猫の綱吉が心配そうに顔を覗き込んでいた。綱吉は前脚でそっと私の頬に肉球を押し当て、そろそろと私の胸元あたりまで下がった。どうやらずっと添い寝してくれていたようである。その後、何回か、そろそろとまた近づいて、唇や頬に冷たく柔らかい肉球を押し当てては、傍に下がってじっとしていた。ようやくどうにか起き上がれるようになったのは翌日のお昼も回ってから。その間、ご飯をねだりもせず、声も出さずにぴったりと体をつけてずっと寄り添ってくれていたのである。後からわかったが、インフルエンザだった。

 猫派とか犬派とかいうことなく、動物が好きだ。一緒に暮らすものとして動物を尊重し愛した経験のある人ならおそらく、かれらが(たとえ人間にはわからないことがあるにしても)豊かな情動を持っていることを「知って」いるだろう。ある場合は、言語を持たないからこそ、人間の力を超えたなにかでわたしたちとより深く交感できることも「知って」いる。だから読む者は、この本に書かれていることには、まったくもって然り!と手を叩くはずだし、実践されていることがもっともっと日本でも広まってほしいと願うに違いない。

 困難を抱えたり、生きることにつまずいた人々が動物とともにいることによって、自分の力が引き出されたり、よりよく生きられる方向に歩みを変えられることがある。さまざまな分野でそのようなことをサポートするプロジェクトや施設の現場を米国と日本でルポしたのが本書である。本書にも紹介されている盲導犬や介助犬、病棟や高齢者施設などで活躍する動物たちは、わりとよく知られているだろう。だが、それだけではないのだ。問題を抱えた子どもたち、劣悪な環境や虐待によって心に深く傷を受けて人との関わりができない子どもたちを、自然豊かな農場のような施設に受け入れ、プログラムされたサポートのもとで動物たちと交流することで回復を促し、自立を支援する米国の諸団体の取り組み。盲導犬や介助犬育成を受刑者が担うことにより、自分と向き合い、社会と自分のつながりを見つめることで、その生き直しを助ける刑務所のプロジェクト。そのほか、教育現場や司法の分野などで取り組まれている動物たちと人の関わりが描かれる。

 こうした取り組みは、人間のために動物たちの力を「利用」しているというものではない。人間による虐待や遺棄で心身に深い傷を負った動物たちを保護する団体が関わって、保護された動物が参加しているものも多い。そうでない場合でも、働く動物たちへの配慮は十分になされている。つまり、生きるものたちへの尊重が基本にあって、相互関係の中で生きる力を引き出すものともいえるのだ。いくつもの具体的な事例に驚きと感動がある。

 動物の力。人間もその動物界の一員だ。それをあらためて考えよう。

雑賀恵子の書評 「なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない」 東畑開人 

雑賀 恵子さん
~Profile~
京都薬科大学を経て、京都大学文学部卒業、京都大学大学院農学研究科博士課程修了。大阪産業大学他非常勤講師。著書に『空腹について』(青土社)、『エコ・ロゴス 存在と食について』(人文書院)、『快楽の効用』(ちくま新書)。大阪教育大学附属高等学校天王寺学舎出身。

 カバーの絵を見よう。夜の海。海の彼方はうっすらと明るく、影が伸びているのは月の明かりか、夜明け前の光か。波打ち際に小舟に乗った人が一人、小舟の脇には寄り添うように浜辺に座っている俯き加減の人が一人。柔らかい灯火を灯した細く高い柱が、遠く近くに6本。

夜の海を頼りなく、心許なく独り、小舟を漕いでいるのは、あなた。寄り添っているのは、臨床心理学・精神分析学・医療人類学を専門とし、臨床心理士としてカウンセリングルームを主宰している著者。

 人生で迷子になってしまう時期。受験や仕事の失敗といった大きな問題からだけではなく、小さな失敗から自信を失ったり、微妙なすれ違いから他人を信頼できなくなったり、そんなことの積み重ねでありふれた日常が失われ、未来の見通しが消えてしまう。誰にでも起こり得るこうした危機の時期を、著者はユングに倣って「夜の航海」と呼ぶ。

 夜の海に小さな小舟で漂いながら、どこを目指してどこへ行こうか、そもそも自分の今いる位置さえおぼつかず、陸地がどちらにあるのかもわからない。そうした不安と混乱にある人に対して、静かに傍に座って、一緒に戸惑いながら、ときには一緒にああでもない、こうでもないとおろおろしながらも、あそこに光が見えるようだよ、でも眩しすぎるからよくわからないね、もう少し柔らかい光で形を見分けられるようなところを探そうか、と語りかけてくれる。そんな本である。

 どんな生き方がいいか、やれポジティブに考えよう、いやネガティブを受け入れよう、身の回りの人に感謝しよう、いや自分の人生を生きよう、といった人生指南書や自己啓発本は数多く出ている。本でなくとも、生き方について強力なアドバイスとなるような言説も溢れている。これらは、いわば人生の処方箋(船)だ。だけども、心は一般化できないし、複雑でその都度変わる。処方船に乗り込んで楽になったとしても、人生の問題そのものが解決できているわけではない。安全な港に避難し態勢を整えるために処方箋は有効に働く。これはマネージメントの時期と呼ばれる。それは必要ではあるのだけれども、それだけでは足りずに、これまでの生き方を見つめ直し、新しい生き方を模索せざるを得ない時がある。そういう時がセラピーの出番である。混乱した心に補助線を引いて、複雑な心を複雑なままに分割して見やすくする。いま必要なのはマネージメントか、セラピーなのかをひとつひとつ判断しながら繊細に舵取りを行うのが、カウンセラーの仕事だという。

 「処方箋と補助線」「馬とジョッキー」「働くことと愛すること」「シェアとナイショ」「スッキリとモヤモヤ」「ボジティブとネガティブ」そして「純粋と不純」という見出しにある不思議なキータームを灯火にして、著者は、あれかこれか、ではなく、あれもあってもいいしこれもあってもいい、というふうに、決めつけることなく、ゆるやかに、惑いながら夜の海を漕ぎわたることを支えてくれる。

 水平線の向こうには、やがて昇りくる陽の光がほのかに空を染めているのが見えるだろう。

雑賀恵子の書評 「清少納言がみていた宇宙と、わたしたちのみている宇宙は同じなのか? 」池内了(青土社)

 自分は理系だから国語が苦手だとか、逆に文系だから数学はわからないとか、いとも簡単に決めつけることがある。こうした文系・理系の分け方は当然のように受け入れているけれども、実際は日本の大学受験の際に必要なだけだ。経済学のある分野はほとんど数学の世界だし、動物実験中心の心理学というのもある。ではあるが、理系か文系かという区別は、進路を決めるのに決定的といっていいほど受験生を縛り付けている。では、博物学は理系、文系のどちらだろうか。博物館はあるが、博物学部とか博物学科というのは聞かない。そもそも博物学とはなんだろう。

 読書家であり文系志望だった著者の池内了は、中学の頃、優秀であるが理数系に弱い兄(独文学者の故・池内紀)に対抗して理学部に進もうと考え、大学院では天体物理学を研究した。厄年を過ぎる頃、天文学者としての自分の才能に迷いが生じ、研究場所を国立天文台から阪大、名古屋大へと変え、他の分野の研究者と交わるうちに、宇宙を見上げる仕事から宇宙からの視線で地上を見下ろす仕事(科学・技術・社会論)へと重点を移したという。理系知と文系知を融合して両方の視点からものを見るようになったのだ。

 このような視線は、洋の東西を問わず昔から博物学に備わったものであり、西欧では自然科学発祥の母体となっていった。日本では、薬草・薬物の研究(本草学)やら希少な動植物の蒐集・観察が博物画などとして花開き、博物学は、遊び・洒落・機知・粋や潤い…といった江戸文化を体現するものとなっていく。それが西欧科学の輸入に勤しむ近代化の流れの中で、実利に結びつくような科学技術一辺倒となり、自然と密接して生きてきた人間の営みと結びつき異質なものが入り混じった博物学は忘れられてしまった。科学を難解な知識の塊として捉える現代の学問のあり方はさみしいものであり、文化をひ弱なものにしているのではないかと著者は嘆く。

 そこで、理系の知識と文系の人間の営みを合体し融合させて、読む人が科学と文学を同じ地平に捉えることができる作品ができれば素晴らしい。そう考え、「池内流の新しい博物学」として書かれたのが本書である。

 とはいえ、小難しいものではなくて、さすが江戸の博物学に遊びや粋をみた人である。レンズや磁石、ブランコ、真珠にフグ、ホタル、朝顔、彼岸花などを対象に、古今東西の小説や詩歌、歴史に残るエピソードを綴り、角度を変えて物理学や化学などの方面からの知見を織り込み、軽やかに語っていく。洒脱なエッセイ集であり、これを雑学、学者の余技とすることほど愚かしいことはない。ものをよく観察し、知ること、思考の方向を決めつけないで自由に遊ぶこと。そうして自分の世界を広げ、深めていく。知ることの悦びが、ここにある。

雑賀恵子の書評「ぼくの昆虫学の先生たちへ 」今福龍太

 「ぼくの昆虫学の先生たちへの架空書簡」といっても、ぼくこと今福龍太は昆虫学者ではない。日本の大学ばかりではなく、メキシコや米国、ブラジルなどの大学に勤務して研究してきた文化人類学者である。それも通常思い浮かべるような地域や民族などに焦点を当てた研究者とは違う。地理上も、時間軸上も、学の枠組み上も、そして思考そのものも境界を越境して自在に羽ばたいている思想家だ。

 その今福龍太は、自らを「少年!」と呼ばれると、子供時代に感じた自由な風が吹き抜ける空白の領域をいつまでも守ろうとしてきたことが認められたようで、少し誇らしく思いさえすると書き始める。さらに「昆虫少年!」といわれれば無上の喜びへと誘われる、という。そんな書き出しは、すでに六十代後半となった著者の郷愁に覆われながらも、いまなお著者の心にあるみずみずしさが噴き出すようで心地良い。少年期の純粋と無垢とがひたすら虫へと向かっていたことは、自分を消し、虫の棲む自然の中に「世界」というみずみずしい感覚を発見する至高の通過儀礼だったかもしれないと著者は捉える。まわりの自然環境があり、虫への情熱を掻き立ててくれた先生があって、ずっと変わらず身体の奥底にとどまって著者を揺さぶっているであろう昆虫少年が生まれた。

 昆虫へと、外の世界へと、少年の情熱を促した14人の先生たちに、それぞれ虫のタイトルをつけて捧げた手紙を編んだのが本書である。

 もちろん(?)アンリ・ファーブル(「ジガバチの教え」)から始まるが、チャールズ・ダーウィン(「カスリタテハの幻影」)や昆虫調査機器商の第一人者志賀夘助(「ギンヤンマの祈り」)といった人たちばかりではない。ヘルマン・ヘッセ(「クジャクヤママユの哀しみ」)、北杜夫(「聖タマオシコガネの無心」)、安部公房(「ハンミョウの流浪」)などの文学者、手塚治虫(「ユスリカの呪文」)のような漫画家もいる。直接の出会いにより、あるいは著作や標本、採集道具などを通して、今福少年の「昆虫学」を導いた人たちを、著者は先生と呼び深い尊敬を寄せる。

 手紙は、この素晴らしい先生たちとの対話であり、先生たちに触発されて昆虫に没入した少年時代との対話であり、昆虫との対話であり、昆虫によって開かれた世界との対話である。先生たちとの対話からものの見方や思考の立ち位置が浮かびあがり、少年時代との対話から今福龍太という思想家の成り立ちが示唆され、昆虫との対話から生命の不思議さについて、世界との対話からこの星に生きて在ることの意味について少しばかり考え始めることができるかもしれない。そして、この本を読むものは、多様な世界への驚きと失われゆくものへの哀惜に満ちた美しい文章に抱きしめられて、自分の中に何かが生まれるような幸福を感じられるだろう。たぶん、きっと。

 

雑賀恵子の書評「体はゆく できるを科学する テクノロジー×身体」伊藤亜紗

 伊藤亜紗は『目の見えない人は世界をどう見ているのか』や『どもる体』『記憶する体』といった著書で、障害や病気を持った方の身体感覚を探究してきた人だ。本書によると、「できないこと」が生み出す可能性や、その体と付き合うために当事者の方が生み出す工夫に面白さを感じていたという。「できる/できない」という言葉は優劣の価値判断と結びつきがちであり、生産性だけで人を評価する能力主義的な風潮を強化したり、多様な人々を一つの物差しの上に並べる強制力がある。だからこそ、障害や病気とともに生きている方から「できないこと」の価値を教えてもらうこと、私たちの想像をはるかに超えるような体の可能性と、合理的には説明がつかないようなその人ならではの固有性というものを知ることで、こうした二分法を相対化しようとしてきたのが著者の姿勢だった。

 その著者が、「できるようになる」という出来事の不思議さや豊かさを知り、面白さに気が付く。理工系の現在進行形の研究成果を参照しながら、「テクノロジーの力を借りて何かができるようになる」という経験に着目して、テクノロジーと人間の体の関係について考えたのが本書である。

 5人の別々の分野の科学者、エンジニアとの対話をそれぞれ章立てし、テクノロジーを用いて人間の体を「できるようにする」ことの実践例と、そこからの考察が展開される。手指に装着する人工筋肉とピアノ演奏(第1章)や、野球のピッチング(第2章)から見えてくるのは、「できる」ためには環境等の変化に応じてその都度やり方を柔軟に変える「変動の中の再現性」が重要であり、それを支えるテクノロジーの仕事は、初心者に対しては「正解を提示すること」、上級者に対しては「未知の探索可能性に誘い出すこと」だと著者はいう。では、科学がどうしたら人の体が行っている「変動の中の再現性」をとらえ、「未知の探索可能性に誘い出すこと」ができるのか。3章では、それを可能にする画像処理技術を用いた方法を紹介する。意識の隙をつくような「できない」から「できる」へのジャンプが起こる時に、脳にはどのような変化が起こっているのかを、リハビリの現場での応用例を紹介しながら脳科学の観点から見るのが第4章。最終章では、音を出さずに喋るなど、声のテクノロジーを通して、テクノロジーによって開かれる実際の肉体を超えた身体性や、「自分」と「自分でないもの」の境界の曖昧さ、濃淡について考えさせてくれる。

 本書で紹介される事例は、科学番組などで見たことのあるものかもしれない。そこに、人文社会学系の眼差しを差し込み、そして身体を持った科学者たちとの対話を通して思考の領域を広げるのが本書だ。身体というものについて、テクノロジーというものについて、さらには高度テクノロジーで構築されている世界での倫理のあり方についても考える方向性を示唆してくれる本書を手に、わたしたちはみずからの思索に踏み出していけるだろう。

雑賀恵子の書評「他者の靴を履く」プレディみかこ

 相手の立場に立ってその人の気持ちを考えなさい、と諭されたことはあるだろう。だが、たとえば、いじめをしている人の立場に立って、気持ちを考えて自分も同じ気持ちになったとしたら、いじめを肯定してしまうのではないか。共感するというのは、そんなことだろうか。そもそも、他人の立場に立ってものを考えることで他人を理解できるということは、他人と自分が「同じ」であり、交換可能なものであることが前提となっていなければならない。その前提は、生まれも育ちも、ものの感じ方も何もかも違う人間において、いつも成り立つとは限らない。こうしてちょっと突き詰めると、他人の気持ちに対して共感する、ということは何を意味するのかさえ分からなくなってくる。とはいえ、他人とは理解できないものだと切り捨ててしまっては、一歩も踏み出せないし、何も変わらない。


 多様な存在の集まりである社会で軋轢を少なくしながら共存していくことや、個人間でもうまくやっていくことを「他者を理解すること」から考えるとき、「共感」がキータームとして近年よく用いられるようになったが、エンパシーという言葉も耳にする。情緒的な意味に力点がかかるシンパシー=「同情」に対置するものとして、日本語ではエンパシー=「共感」としているようだ。著者は、ベストセラーとなった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』でエンパシーという言葉に注目を向けた一人である。「共感」と訳されがちなエンパシーを、英語圏でも、論者ごとに異なると言っていいほど多様な定義、意味で使われていることを解きほぐすことから始めて、多様性社会を保証するためのエンパシーを探ったのが本書である。


 著者は、貧困家庭に育ち、高卒後英国に渡り、のちに保育士の資格を取って失業者や低所得者が無料で子供を預けられる託児所で働いたり、20数年英国社会でさまざまな経験を重ねて、現在英国で翻訳やライターとしての活動をしている人だ。経済格差と多様性という二つを根底に置いて発せられる彼女のレポートや著作は、とんがっていながら、空気を求めて融通無碍に広がっており、ドライブ具合がかっこいい。


 エンパシーをめぐる本書も、様々なフィールドを縦横無尽に駆け巡る。諸議論で使われるエンパシーの語義や歴史。大逆事件で検挙され獄中死したアナキスト金子文子のエンパシー。米国の刑務所で行われる「回復共同体」プログラムのドキュメンタリー映画(坂上香監督)。SNS。ミラーニューロン理論からの脳内と共感の問題。コロナ禍によって剥き出しにされたケア階級と経済の問題。サッチャーの経済政策から見るシンパシーとエンパシー。ジェンダー…。いまここにある、この現在、この世界を剥き出しの肌が捉え、生きる足場をしっかりと確かめながら、彼女の文章はこちらに向かってまっすぐ投げられる。「異なる者たちが共生している『あいだの空間』で民主主義(すなわち、アナキズム)を立ち上げるには、エンパシーが必要だ」という彼女のボールを、どう受け止めるか。「すなわち、アナキズム」を、わたしたちも知力を傾けて読みとこう。この「わたし」の生きる足場を固め、他者と共に思いっきり呼吸のできる空間を求めるために。

雑賀恵子の書評「計算する生命」森田真生

 数学はお好きだろうか?評者は、小学校に上がる前から、すでにマイナスの概念がわかり、小学校の算数のなんとか算というのは頭の中で代数的にイメージして解き、幾何学も代数学も得意だった。そう、三角関数が出てくるまでは。というのは、微分積分での三角関数の公式が覚えられず、次々と出てくる複雑な公式をまず覚えてなければ問題が解けないところや、頭の中でイメージができないところでつまずいて凡人以下になってしまったからだ。大学では初歩的な数学の講義は取るには取ったけれども、いろいろな記号が何を意味するのか、その意味とは何かがさっぱり理解できず、諦めた。学校教育における数学は、物理学や数理経済学などに進んでいくための基礎の方法であって、数学の勉強とは問題を解くことだと片付け、以降は手を切った(というよりも数学の世界から切り捨てられた)。


 ああ、なんという間違い。計算することは、単なる技術ではないし、数学はパズルではない。古代ギリシア哲学において数学で世界を記述することが重んじられ、デカルトが座標系で代数学を発展させていったのはなぜか。それは、世界をどう認識し、どう理解していくか、ということに大きく関わっていたのである。


 本書第二章冒頭に、ジェレミー・アヴィガッドの言葉が引用されている。


 「数学の歴史は、人類がその認識の届く範囲を拡張するためにあらゆる手段を尽くしてきた歴史であり、理解する力を押し広げるために、概念や方法を設計してきた歴史だ」。


 学校教育での数学は、人間の認識とは関係ないところにある普遍的な公理や規則の体系があって、それを個別に落としていくという演繹的な教え方をされる。そうすると、数学は、閉じたものであってそこから新しい概念や世界が広がっていかないように思い込んでしまう。そうではないのだ。


 そもそも数とはなんだろう。実在の事物とは関係のない概念ではある。しかし、一方、事物を数えるということは、個別実在の身体を伴った行為だ。生物である人間が事物を認知するのには、感覚器官をもつ身体が必要だと思われるからである。著者は、30代半ば、数学をテーマに著作や講演、「数学の演奏会」などのライブ活動を行う「独立研究者」。確実な知識とはなんであって、それを得るにはどうすればよいのかをめぐる知の営みを、古代ギリシアから現代までの数学者たちの思考を紹介しながら語り続ける。語られる数学は難しいのだけれども、認知にとっての身体性の意味が、明晰な文体で鮮やかに浮き彫りになってくる。


 身体性を持たない人工知能研究は、数字で一般化して固めていくのではなく、むしろ、知能を実現させるためには状況や身体が必要である生命というものの探求にも向かっていった。最終章「計算と生命の雑種」では、地球環境の激変をはじめとする様々な危機に直面する現代において、計算による認識の拡張とともに、生命体である人間の自律的な思考と行為による意味の生成の必要が呼びかけられる。


 計算する生命。計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編みなおし続ける。タイトルにこめられた著者の熱い想いに気づいたとき、力強く、自分が広がっていくのがわかるだろう、きっと。

雑賀恵子の書評「現代社会用語集」入江公康

 例えば、「新自由主義」を引いてみる。説明文中の一文。「(…)貿易自由化によって一国の経済を多国籍企業の食いものにするとともに、国内的には民営化と規制緩和、社会保障・福祉・医療・教育などへの公的支出削減を政策の柱に『小さな政府』をめざす。手前勝手な『自己責任』の哲学をふりまわし、教育は自己投資、失業は能力不足のせいとほざく」。なるほど。


 次に「負債」。「(…)借りたらさいご、債務奴隷まっしぐら。負債は支配・統治の手段なのだ」として、国家に埋め込まれた負債システム=資本主義について触れる。そして、「いっさいの負債はデッチアゲであり、したがう必要がない」。えっ、そうなの?


 それなら「学費」。学費が高額なら、経済的に不利な家庭の子どもは大学に行けない。学生がバイト漬けなら、安価労働力が労働市場に大量参入するから賃金を押し下げる。親に出して貰えば、親への依存を生んで自立が奪われる。奨学金は高利の借金。返却のために定職に就かねばならず、生き方の多義性を殺す、というのが要約。


 性格が歪みそう? いやいや、本丸をズバッと撃ってるよね、と納得する?


 本書は題名の通り、「ことば」「ひと」「出来事」「シネマ」と四つのジャンルに分けて、五十音順に並んだ用語集である。用語集であって、用語辞典ではないのは、明らか。つまり、中立的(?)な用語解説ではない。わたしたちの生きているこの社会がどういうものであるのか、それを考えるために、取りかかりとなるような単語を集めて、著者が切った本である。ただし、切ってみせてはいるが、捌くまでいかない。それをするのは、読者の側だからである。


 本書の目的は明確だ。冒頭の「はじめに」で、この「社会」の自明性をはぐこと、「あたりまえ」を疑ってみる/疑うことだ、と宣言している。


 この社会の「あたりまえ」を疑う、ということは、ひいては、親や教師が言っていることばかりではなく、学校教育で習ったものすら疑うことを含む、と私は思う。過激に聞こえるだろうか。いや、そもそも「学問」とか「研究」の基本の一つは、この疑うということなのだ。そんな大上段に構えなくとも、自分が誰とも取替のきかない自分であることを自分がまずしっかりと認め、自分が伸びやかに呼吸できるような空間を確保するためには、自明だと思っている/思い込まされているものを疑うことが大切だ。


 これは、呼びかけの本である。「用語」に対する著者の説明に驚いたり、納得したりしても、その説明を丸呑みにしてそこにとどまっていてはつまらない。呼びかけに応えて、さあ、自分の思考を紡ぎながら、もっと遠くへ行こう。

雑賀恵子の書評「世界哲学史」伊藤邦武/山内志朗/ 中島隆博/納富信留 責任編集

 2020年世界のあちこちで猖獗を極めているコロナ禍のなか、君たちはなにを見、なにを聞き、なにを感じ、なにを考えているだろうか。あっという間に、学校生活も、家族の生活も変わってしまい、これからの進路に戸惑いと不安を抱いているかもしれない。 感染拡大を防ぐという目的で、個人の自由な行動や経済活動を制限するために、すなわち私権を制限するために、行政はどのような手順を踏んだのか。個人と公益の関係はどうなっているのだろう。各国の対応は、どうであるか。独裁的な国家と民主的な国家とでは、このような非常事態に対する政策及びその結果にどのような違いがあり、どう評価したらいいのか。これは戦争だと語った各国指導者も何人かいたが、実際の戦争の場合と、パンデミックによる非常事態とでは、何が異なり、何が同じなのか。 医療崩壊を起こしたところでは、「命の選別」がやむなくなされたと報道されている。「命の選別」について、生命倫理はどのように語ってきただろうか。また、目に見えないものに対する恐怖から、感染者と目される人々やさらにはその民族への差別や排除もみられたが、大衆の心理はどのように動くのか。 パンデミックにより新自由主義に支えられたグローバル経済の脆さが露呈されたし、パンデミック自体グローバリゼーションによって蔓延が加速されたとも言える。事態が収束しても、全体的な経済的ダメージは大きく、このダメージは低所得者層ほど苛烈に受けるからさらに格差が広がるのは間違いない。一方で、経済活動の停滞は、深刻な環境汚 染を少しばかり改善し、空の青さや河川や運河の透明さに驚いた人々もいる。 いずれにせよ、君たちは、紛れもなく世界史に記録される大きなイベントに立ち会っているのだ。 このパンデミックのなかで起こっていることをしっかり観察しよう。そして、パンデミック後の社会や価値観がどう変容していくか、いや、どう変わっていくべきなのかを考えよう。提示された問題群は、現在のものであると同時に、野生から離脱し文明社会を築いてきた人類がその原初から背負ってきた問題でもある。 そうだ、考えるための武器は、哲学である。今年1月から毎月一冊刊行されている『世界哲学史』は、全8巻の新書シリーズだ。従来哲学史というのは、ギリシア哲学から始まって西洋哲学を中心に語られてきた。そもそもが歴史を記述するという視点、近代という区分そのものが西欧の思想に立脚している。本シリーズは、西洋のみならず、中近東、ロシア、インド、中韓日、東南アジアやアフリカ、オセアニア、ラテンアメリカやネイティブ・アメリカと空間的にも、現在から過去や未来へと時間的にも、地球から宇宙へ、万物へと対象を広げ、世界哲学を描き出す。第一巻序章には、「世界哲学とは、哲学において世界を問い、世界という視野から哲学そのものを問い直す試みなのである。そこでは、人類・地球といった大きな視野と時間の流れから、私たちの伝統と知の可能性を見ていくことになる」と宣言されている。さあ、 武器を磨き、身につけよ。この世界で、君が生きるために。

雑賀恵子の書評 人新世の「資本論」斎藤幸平

 2020年、産業革命以前より地球の平均気温は1.2度上昇した。もし2030年にプラス1.5 度になるとすると、臨界点を超えて地球温暖化は暴走し、危機的な状況を迎えるといわれている。現在すでに気候変動によって、世界各地で異常気象が続き、大きな被害をもたらしていると同時に、持続的な食料生産への懸念も深刻である。一方、世界の格差は広まる一方だ 。ここに来て、あちこちで目につくのは、SDGs(持続可能な開発目標)である。2015年に国連が掲げた目標で、各国政府も大企業も推進している。意識ある人々も、自動車に乗るよりも公共機関利用に、できなければ電気自動車にして、エコ袋をもち、プラスティックのゴミをなるべく出さないように生活を変えようとしている。だから、この努力を続ければ、人類は危機を回避して発展をしていく可能性はある…??

 著者はのっけから、SDGsのお題目を唱えたところで、それはアリバイ造りであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかないと断じる。

  人類の経済活動が地球の地質や環境に重大な影響を与えている現在を、「人新世」と位置付ける見方がある。著者は、気候変動をもたらした経済活動の根底にあるものを帝国的生活様式として分析する。後期資本主義の発展とそれによってもたらされる豊かさは、周辺部(低開発地域)の収奪によって生み出されたものであり、恩恵に預かる中心部(高開発地域)は、常に周辺を見出してそこに矛盾を追いやってきた。

  中心部においても格差は大きい。中心/周辺は地理的な意味だけではなく、結局のところ大資本が富を独占する。強い国家はそれと協働する。それがグローバル経済の実態だ。それが環境破壊と気候危機をもたらしているのである。著者によると、人類の経済活動が全地球を覆ってしまった人新世は収奪と矛盾の転嫁を行うための外部が消尽した時代である。

 だとすれば、経済的な発展を手放さない限り、言い換えれば経済的な発展を至上の善であり目的であるとする資本主義システムを廃棄しない限り、人類は、危機を回避できないのではないか。この文脈から、著者は、再生可能エネルギーなどに公共投資を行い、景気を刺激しつつ持続可能な緑の経済に振り向ける気候ケインズ主義の限界を指摘し、続けて、資本主義システムでの脱成長などあり得ないと論じる。

 では、どこに希望を見出すか。脱成長コミュニズムだ。20世紀末崩壊していったソ連をはじめとする共産主義国家群を範としているのではもちろんない。いまさら?ではなく、いまこそ! K・マルクスを読み直し、マルクスが最後に目指したものとしての「脱成長コミュニズム」である。コミュニズム、すなわち「コモン」。ここで、「私」、「 国 家 」、民主主義が問い直され、危機回避の軸が模索される。

  著者の分析や主張は、実はさほど目新しいものというわけではない。しかし、手に取り易い新書でベストセラーになっている。「知識」として読み飛ばし消費していくのではなく、本書を手にとった人たちが、私/たちがこの地球で生きていけるよう、思考と実践を深められるかどうか、そこに未来の希望はかかっている 。

雑賀恵子の書評「生まれてこないほうが良かったのか?」森岡正博

 タイトルにぎょっとした方もいるかもしれません。この問いは、誰が誰に向かって投げかけたものなのか。「こんなことなら、生まれてこないほうが良かった」と絶望した人の嘆きを聴き取った人は、そう思わせる状況がなんなのかを考え、どうにかしようとするでしょう。誰だってしあわせに生きていたいものだということは所与の自明のものとされ、それができないからそういうことを言うのだ、と受け取るからです。そもそも、もし自分が生まれてこなかったのなら、今ここでそう考えている自分(主体)はいないわけで、どちらが良かったのか、自分(発話主体)が比較することはできません。つまりこの問いは通常、どちらが良かったかという比較に関するものではなく、自分の現在を受け入れられない人が、誰かに自分をそれでもなお肯定して認めて欲しいとか、自分の状態を救って欲しいとかの願いを込めて絞り出した叫びのようなものだと捉えられるのです。


 ではそうではなく、「一般的な問い」として、この問いを捉えるとどうなるでしょうか。これと格闘したのが本書です。古代より現代に至るまで、人間が生まれてくることや、人間を生み出すことを否定する思想があります。大まかに反出生主義と呼ばれるものです。著者は、自分が生まれてきたことを否定する思想を「誕生否定」と呼び、人間を新たに生み出すことを否定する思想を「出産否定」と呼んで区別します。近年、哲学者デイヴィッド・ベネターの、全ての人間の誕生は害悪であり、人類は出産を諦めることにより消滅するのが良いという本が話題になりました。著者は、古代ギリシア文学やインド思想、ブッダの哲学、ゲーテの『ファウスト』やショーペンハウアー、ニーチェなどを丹念に解きほぐしながら、誕生の否定と肯定の思想に真摯に迫っていきます。誕生が良いか悪いかを功利主義的に論じたベネターを退け、「誕生肯定」を打ち立てるためです。著者のいう「誕生の肯定」とは、「生の肯定」や「人生全体の肯定」ではなく、自分が生まれてきたことを本当に良かったと心の底から思えることです。


 これまで生命倫理や環境哲学など現代の私たちが直面している問題を幅広く論じて、「生命学」を提唱してきた著者は、さらに「生命の哲学」という領域を切り開くことを本書において宣言しています。もしかしたら、著者自身が生きて在るために踏み締めることのできる強い地面を求めているからかもしれません。しかし、だからこそ、わたしたちは「生命の哲学へ!」という呼びかけに応じ、本書の言葉の森を辿り自分の生をかたちづくっていけるのでしょう。

雑賀恵子の書評「心にとって時間とは何か」青山拓央

「時間とは何か」なら、まだわかる。物理学や量子力学の難解な議論の本かしらと想像するかもしれない。だが、本書は「心にとって時間とは何か」だ。心にとって、ということは、 時間というのは何かの心象ということをも含むのだろうか。

  確かに、子供の時は長いと思えた一日も大人になるにつれ経つのが短く感じられるとか、何年も前のある出来事が「昨日のことのように」感じられるとか、そういうことを考えれば、なるほど、時間とは、心、認識の問題かもしれないと思えてくるのではないだろうか。タイトルにそんな疑問を持つ人にこそ、読んでいただきたい。

 実は、時間についての考察は、アリストテレスも、中世のアウグスティヌスなども取り上げた、随分古くからの哲学のテーマだ。そして、本書で挙げられている時間をめぐる問題群及びそこから展開される問題群もまた、身近であり、それだから多くの人が論じてきたものである。決して目新しいものではない。

 本書は、心と時間をめぐる議論をいく筋かの道に分けて、 脳科学や心理学や倫理学や、そのほかさまざまな分野における従来の知見を紹介し、そしてその道から導き出される人間生活における心と時間の問題を、別の道筋として示し考察していく。

 そのために章立てには趣向が凝らされ、入念に道が配置されている 。第一章には「知覚」(時間の流れは錯覚か)、第三章「記憶」、第五章「SF」(タイムトラベルは不可能か)、第七章「因果」と、奇数章には心と時間をめぐる議論の道が敷設される。偶数章には「自由」「自殺」「責任」 「不死」と人間生活のテーマを置き、その前の奇数章を踏まえながら時間概念とどう関わるかが語られる。さらに、第一章「知覚」と第五章「SF」、第二章「自由」と第六章「責任」、第三章「記憶」と第七章「因果」、第四章「自殺」と第八章「不死」が立体交差するように対応しているのだ。読み手は、それぞれの道を辿りながら、そこにある風景、つまり紹介される知見を愉しむが、どこかに行き着くことはない。

 著者とともにいく筋もの道を彷徨いながら浮かび上がってくるのは、時間というものをめぐる謎だ。つまり、本書は、踏み分けられた道を示すことにより、踏まれたことのない未知の領域を指し示しているのである。著者なりの解答ないしは結論を性急に求めるような、クイズ好きの人には向かない本と言ってもいい。

 そうではなく、著者とともに巡った思考の旅から帰還することないまま、自分なりの新たな道を探しに行きたくなるような本なのだ。

雑賀恵子の書評「理不尽な進化 遺伝子と運の間」吉川浩満

 恐竜の嫌いな子はいない(だろう、多分)。地球上のどこにも、今、恐竜はいない。絶滅してしまったからだ。なぜ2億年近くも興隆を誇った恐竜の時代が終焉を遂げたのか。それは、ユカタン半島のちょっと先の浅瀬に墜落した巨大隕石の影響だ、と言われている。科学番組などのさまざまな再現映像で見たら、1日で地球の裏側に達するという凄まじい熱波や衝撃波、降り注ぐ岩石や有毒物質の地獄絵に、あっという間に恐竜たちは壊滅状態に陥ったという印象を持つ人もいるかもしれない。だがそういうわけでもなく、隕石衝突による地球環境の激変や粉塵が地球を覆うことによって起こる寒冷化などで食物連鎖が断たれ、彼らの舞台は幕を引かれるのである。地球上の生命体のかなりの部分が絶滅してしまう大絶滅期は、知られているだけでも5回ある。このような絶滅は、厄災のような地球環境の激変だから、絶滅したのは、全くもって運が悪かったと思えてしまう。たまたま変化した環境に適していたものが、運よく生き延びたのだろうか。


 だが、そればかりではない。地球46億年、生命が発生してから40億年という長い時間の中で、想像もつかない多くの生命が生まれたが、生物種の99.9%は絶滅してしまったという。なぜだろう。ここで頭に浮かぶのが、進化論。進んで変化していく、というから、生物は優れたものが生き残り、劣ったものは滅び去る自然淘汰という競争ゲームによって世界は成り立っている。だから進化の先端にいる現在の人間は、700万年前チンパンジーと分かれた人類の祖先よりもさらにずっと優れている、とするのが進化論だと受け止めている人もいるだろう。一方、そもそもが生存競争というゲームではなく、環境に適応したものが生き延びたという適者生存だ、というのも進化論である。では、適者とは何かというと、生存したこと自体によって定義される。よく考えれば、これはトートロジー(同語反復)で、定義になってない。一体、進化論って、なんだ?


 進化するって、わたしたちは日常的にもよく使うし、自分のいる世界でより良い姿や生きる方法を持つことではないの?


 本書は、絶滅してしまったものたち(=敗者?)の側から進化を眺めることから始まる。そうすると、絶滅というのは、理屈や法則を超えて、運や遺伝子(能力)が絡んだ理不尽なものとしか言いようがないものになってくる。そして、自然淘汰や適者生存の俗流理解をときほぐしながら、進化というものをめぐる現代の進化論者たちの議論に踏み込んでいく。と、まとめあげれば、進化論の解説書のように思えるが、そこに留まらない。「進化論」という思想を足場に縦横無尽に広がる本書を読み進めば、サイエンスの思考のあり方や、サイエンス(観察-言語化/理論化-実証-操作)の領域には捉えられないアート(言語/理論化し得ないもの)の領域にも目を開かされる。随所に置かれた註が、これまた読者の興味を掻き立てる。生物進化をめぐっての議論なのに、もしかしたら、わたしたち自身の世界観も揺るがせかねないくらい、ドライブをきかせて見せてくれるのだ。要するに、めちゃくちゃ面白い「哲学書」だ。

雑賀恵子の書評 「イスタンブールで青に溺れる」横道誠

青に溺れるってなんだろう。

著者はどこにいっても青い美しいものを探している、という。世界各地を旅した著者は、とりわけイスタンブールで青い美しいものへの嗜好が存分に満たされる。モスクの暗い内壁を光が淡く青色に照らす、上品な荘厳さ。青と青緑とクリーム色がとろけるように混じり合う装飾タイル美術館の入り口…。青の饗宴だ。なぜ青に惹かれるか。それは、著者によると自閉スペクトラム症がある人の傾向らしい。自閉スペクトラム症があると自然界からの吸引力が強まりやすいそうである。空や海の色が青いからかもしれないし、逆に空や海に強く惹かれるので、青が好きなのかもしれない。いま思い出しても、記憶の中に収まったイスタンブールの青に溺れそうになる、と著者は書く。イスタンブールの記憶は、石原吉郎の詩にある「無防備の空」や「正午の弓となる位置」という言葉となぜか重なる。これもまた、自閉スペクトラム症の「こだわり」だとしている。

そう、著者の横道誠は、自閉スペクトラム症(ASD)と注意欠如・多動症(ADHD)の診断を受けている文学研究者である。40歳の時に受けたこの診断によって、なんだか多くの人と違うようだけれどもといぶかしんできた自分のしっぽを掴むことに成功した、と別のところ(『みんな水の中』医学書院、2021)で述べている。長年いぶかしむということは、世界との関わりのなかで自分が生きる仕方に、他の人たちとの違いを感じて苛立った思いもしてきたのだろう。どうしてなのかということを外部から診断されることで、腑に落ち、著者は自分の身体をフィールドとして発達障害というものを考え、当事者研究に踏み込んでいく。それをまとめたのが『みんな水の中』である。

横道は発達障害とされる人たちを「私たち」と表現しているが、しかし、「健常者/障害者」ときっちり線引きできるものではない。神経発達ということからみれば、人間の脳は多様な形をとる。つまり、定型に属する人もそれぞれ多様であり、定型と非定型はグラデーションとイメージしてもいいかもしれない。「自分」を文化人類学の手法で観察・研究し、哲学や言語学、文学から得たものを入れ込んで、ケア、セラピー、リカバリーを見通す。「詩のように」言葉を紡ぐパート、「論文的な」記述で考察するパート、「小説風」のパートの三部構成は、ページの紙が青、白、水色で縁取りした白で塗り分けられている。

「自分」を旅した記録が『みんな水の中』だとすれば、その自分が世界各地を旅した記録が『イスタンブールで青に溺れる』だ。取り上げた25の都市に、色彩が溢れだし、不意に思い出される小説や詩の言葉が散りばめられ、過去の記憶が召喚される。「発達障害者」の世界とのきり結び方のぎこちなさが冷静に分析もする。それらがないまぜになった、これは一体エッセイなのか、評論なのか、小説なのか。

そして、読むものは知的興奮に溺れるのだ。